【名作発掘】 『 ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち 』─―平和な日常が侵食されていく恐怖!最凶の“オトナの童話”。

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タイトル

「人は、誰かになれる。」の本当の意味を理解したとき、
自分が“エデンの戦士”だったことを知る。

2000年に発売された『ドラゴンクエストVII』は、“不遇な作品”といえるだろう。なぜならば、世の中の流れはファイナルファンタジーシリーズをはじめとする「観せるRPG」にシフトしており、その中で独自のスタンスを貫いていた本作は「古い」という先入観を持たれ、正当な評価を受けなかったからだ。だが、本作を「シリーズ最高傑作」と賞賛する人たちもいる。その違いは何なのか?2013年、ニンテンドー3DSで本作のリメイクが決定した。この機にもう一度、『ドラゴンクエストVII』と向き合き、その本質に迫ってみようと思う。


ブログ代表
こんにちわ、レトロゲームレイダース/ジョーンズ博士です。

『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』は、2000年にエニックス(現スクウェアエニックス)より発売されたプレイステーション用ソフトです。そもそもがニンテンドー64DD用ソフトとしての企画だったり、シナリオを堀井雄二氏以外の方たちで手がけるチーム制にしたり。かなりの紆余曲折があっての発売だったため、気がつけば前作『幻の大地』より6年の歳月が過ぎていました。

6年の間にゲーム事情は大きく変化。CD-romを媒体とした大容量ゲームが主流となり、ムービーを使用する大作、キャラクターがしゃべるゲームが増えていく中で、あまりにも“今まで”すぎた本作は「昔っぽいゲーム」とライトユーザーをはじめとする多くの人々から認識されてしまったのです。

しかし、そんな発言をする人々に私は言いたい。「ドラクエをドラクエというカタチから進化させなかったのも、お前たち“ファン”である」、と。これはもう呪いである。

slime「古きよきスタイルでなければドラクエではない」という“呪い”
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ドラゴンクエストの不幸は、国産コンシューマRPGとしての基盤になったことにより、「ドラクエとはこういうゲームだ」というイメージが定着してしまったことにある。スーパーファミコンというハードはファミコンに機能を追加させただけのブースト機なので、あの時代はまだドラクエスタイルが通用しました。

ところが、プレイステーションをはじめとする第四次ハード機による表現力の向上は、国産RPGのあり方、「こんなRPGも有りなんだぜ」というアピールを可能に。数々の次世代RPGが生まれていきました。そう時代は進んでいるのです。しかし、ユーザーは昔のままのドラクエスタイルを望んでいる。さらにそこに、6年という月日が加わってしまいました。

『ドラゴンクエストVII』は見た目において、ドラクエの伝統を守りました。ポリゴン表示で世界観を構成しながらも、そこはやっぱり懐かしいドラゴンクエストの世界。それは人々が望んでいたはずの最新作。にも関わらず、「古い」という印象も拭えない事実だったのです。

ですが、本作がどう見られていたかなんてどうでもいいこと

重大なのは、本作の真の価値が知られていないことです。『ドラゴンクエストVII』という作品は状来どおりのフツウのドラゴンクエストを装っていますが、それはとんでもない誤解といえるでしょう。その正体は、“大人の童話”というべき怪作!、『ベルセルク』並みのダークファンタジーといっても過言ではない、超・大人向けのRPGだったということです。

slime冒険の舞台に行って帰ってくる!まったく新しいドラゴンクエスト!
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まず、注目したいのは、『ドラゴンクエストVII』の冒険は従来のように、ゲームスタート時から始まってずっと続いているものではない、ということ。本作は、石版を集めて台座にはめ込み、冒険の舞台となる“別の世界”へ行き、そこで起きている問題を解決して元の世界に戻ってくる。そのくり返しになります。つまり、冒険は断続的に発生するもの、なのです。

分かりやすく言えば、『ナルニア国物語』的、大長編ドラえもん的冒険というべきでしょうか。つまり、「冒険に行ってきま~す、夕飯までには帰るのよ~」的な物語ということ。そう、主人公たちは親たちには内緒で、日常 ⇒ 非日常 を行き来するのです。

石版によって向かう先は、魔物が跋扈し、自分たちの勇気と力が求められる世界。


一方、帰ってくるのは、世界に島がひとつしかなく、魔物もいない平和な世界。

そのような夏休みに秘密基地をつくるような牧歌的なワクワク感あふれる感じは、ゲームを進めるにしたがって少しずつ変わっていきます。

なぜか?

自分たちが冒険をした“異世界”だったと思っていた島や大陸が、なんと、自分たちの世界に次々と現れ始めるからです。次第にこの謎は解けていきます。大昔に、神と魔王が戦い、島や大陸の多くが封印されていたというのです。石版はその封印された“時間”と“地域”に飛ぶチカラが秘められており、主人公たちが介入することで「封印された」という歴史を修正。結果、元いた世界(未来)に、島や大陸が封印されなかったこととして、次々と姿を現していたのです。

しかし、喜ぶことだけではありません。それに伴い、平和だった世界に魔物が姿を現し始め、魔王の影響力は次第に強まっていく…。平和だった日常は、少しずつ“非日常”に侵食されていくのです。時計の針を元に戻すことは出来ません。主人公たちは、まるで何かに追われるように、自分たちが起こしてしまったことを収拾するた
めに、よりキケンな冒険へと身を投じていくのです。

slime冒険は英雄譚にあらず!目を背けたくなる試練と向き合うこと!
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『ドラゴンクエストVII』の旅先で起こるイベントの数々は、実にイヤな話ばかりです。しかし、私が本作を“オトナの童話”と言うのは後味の悪い話が多いからではありません。

イベントの多くが、「××の洞窟に魔物が住み着いているから倒してくれ」といった“おとぎ話風”ではなく、心の間隙を魔物につけ込まれて、取り返しの付かないことになってしまう“人間たちの物語”だからです。事態を収束させたからといってハッピーエンドになるとは限りません。あるキャラクターにいたっては主人公たちに「今は何も話しかけないで」と拒絶したり。いやはや、なんともになる話ばかりではないでしょうか。

極めつけは、「キーファの離脱」でしょう。

ゲームスタート時から主人公の兄貴分として、そしてパーティのリーダーとして物語の中心にいたキーファは、石版で出向いた時空の先で出会ったある一族のために生涯を賭すと言い出し、いきなり戦線離脱してしまうのです。馴染み深いいいキャラだっただけになんともいえない喪失感が襲います。また、パーティの主戦力でもあり、抜けた後も魔物たちが弱くなるわけではないため、しばらくは大苦戦を強いられ続けるという謎の展開に。これに怒り狂った人も多いでしょう。

でも、これでいいのです

なぜならば、『ドラゴンクエストVII』における「冒険」とは、「必ず勝利が約束されている英雄譚」ではなく、「目を背けたくなるような試練と向き合うこと」なのだから。そしてそれが、『ドラゴンクエストVII』を前に大人になった、かつて『ドラゴンクエスト』を遊んでいた少年少女たちに向けた堀井雄二さんのメッセージのような気が私はするのです。

slime精神的な成長をテーマに!ポイントは「はなす」コマンドだ!
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『ドラゴンクエストVII』をひと言でいうなら、「一歩踏み出す“勇気のRPG”」でしょう。

主人公たちは、世界にひとつしかない島グランエスタード島で平和に暮らしていました。あの日、一枚の石版と台座の遺跡に出会わなくても、約束された平穏な生活は送れたはずです。しかし、一歩踏み出したことによって、それらは偽りの平和であることを知ります。同時に一歩踏み出したことで、主人公、大きな試練と立ち向かわなければならない羽目になるのです。

旅は人を成長させます。RPGにおいて成長とは重要なファクターですが、所詮はパラメータの上昇に過ぎません。本作は旅を通して、そんな主人公たちの“成長”を描いています。

本作から追加された「はなす」コマンドによる仲間との会話。実はここがポイントです。さまざまな街に行くたびに仲間に話しかけてみてください。そして、その内容を注意深く見てみると、旅を通じて少しずつ心境が変化している様子がうかがえます。これは戦闘時における「はなす」コマンドにもいえて、AIの成長に伴って頼もしくなっていく会話で、仲間たちの“成長”が感じられる作りになっているのです。

従来のRPGにおいて「はなす」は、登場人物から情報を聞き出すだけの手段でした。パーティのキャラクターがしゃべることはありましたが、それはイベントに限定されてのこと。本作において「はなす」は、ゲーム中のあらゆるタイミングで仲間たちと会話でき、その成長ぶりを伝える仕掛けに進化しました。このようなパーティの仲間にスポットをあてたシステムと仕掛けは、2000年当時において最先端、今でも通用するシステムだと私は思います。

残念なことに、この凄さが一般に伝わることはなく、テイルズシリーズなどのボイスチャットの劣化版と思われてしまったのは残念でなりません。同システムは『VIII』や、『IV』、『V』、『VI』のリメイクでも使われていますが、同じようにストーリーに大きく組み込まれているのは本作だけといえるでしょう。

slime本作最大の謎、キーファの離脱とはなんだったのか!?
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先にも書いた「キーファの離脱」は、まさに青天の霹靂でした。「ふざけんなよ、集中して育てちゃったよ!」、「リメイク版ではキーファ帰還ルート作れよ!」という話になっちゃうわけですが、本作を「“成長”をテーマにした物語」と捉えると、また別の面が見えてきます。

主人公にとってキーファは兄貴分であり、常に自分を引っ張ってくれる存在であり、“目標”でした。『天元突破グレンラガン』のシモンに対するカミナ、『ワンピース』のルフィに対するエース、『あしたの
ジョー』の丈に対する力石といえる存在。それは同時に、彼を越えなければ主人公が自分の足で前に進むことはないということ。本作が成長をテーマにしているならば、キーファの離脱はいわば必然だったのです。

最初の石版によるワープが本作における“ファーストインパクト”ならば、キーファの離脱はいわば“セカンドインパクト”。主人公の本当の物語は、キーファの離脱から始まるといっても過言ではありません。そういうターニングポイントが、あのイベントだったと思うのです。

ゆえに私は、キーファ=ラスボスだった説を支持しません。

頼りにしている人、心の拠り所にしている人が、急にいなくなる。悲しいことですが、人生においてそれは珍しいことではありません。それでも、残った人々は前に進まなければならない。最初は大変かもしれないけれども、乗り越えられるときはきっと来る。人生とは旅のようなものとはよく言われる言葉ですが、多くの人生と関わり、試練を乗り越えていく本作は、まさに旅を描いたRPGといえるかもしれません。

slimeエデンの戦士たちとは、オレたちのことだったのか!?
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石板を台座にはめ込み、別世界へと旅立つ

これの本作の設定が、「ファミコンカセットを挿しこみ、我々がゲームの世界に旅立っていたこと」と類似しているのは偶然でしょうか。ドラゴンクエストがこの世に生誕してから本作で14年。かつてのファミコン少年・少女たちは“大人”になるタイミングでした。いろいろなものによって守られていた「エデン」から一歩ふみ出し、社会という「大冒険」へ。そんな意図があってもおかしくないでしょう。

毎日ぶっ続けでゲームができないサラリーマンにやさしく、イベントが小刻みに配置されている作りにも、本作が大人向けである意思を感じます。

本作を最後に、ドラゴンクエストはこれまで守りつづけてきた伝統をより崩し、新しいカタチを求めていきます。そして、次回作『空と海と大地と呪われし姫君』では、ストーリーではなく、世界を歩く楽しみに特化した“原点回帰”を遂げます。つまり、本作『エデンの戦士たち』は、ストーリー型ドラゴンクエストの最終進化系ともいえます。

表面に広がる牧歌的世界の裏にある、大人の童話を読み解け。そのとき、ドラゴンクエストVIIは大人の鑑賞に耐えうる物語を語りだすはずだ。

「人は、誰かになれる」。RPGの神髄をついた本作のキャッチコピーからあらためて何を感じ取るか。その答えを探すために、今もう一度、エデンの戦士達に立ち戻ってみるのもいいと思う、今日この頃です。

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