【名作発掘】 『ドラゴンクエストIV』――2人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ。一人は泥を見た。一人は竜を見た。

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世界が危機に陥ったとき、天空より勇者があらわれる。

はるか昔、ひとつの大きな戦いがあった。天空人の一人が自ら発明した“進化の秘法”によって、究極の生物へと生まれ変わり、下界の王になろうと天界に戦いを挑んだのだ。世界を司る竜の神はそれを良しとせず、自ら地上に降りて、その天空人と戦った。はげしい戦いは果てることなく続いたが、ついに竜の神は勝利をおさめる。しかし、二人の戦いによって地上は破壊しつくされ、そのことを嘆いた竜の神は、二度と地上の争いに介入することはしないと、自らに厳しい戒めを課したのだった。敗れた天空人の身体は、竜の神のチカラを持ってしても滅ぼすことができなかったため、地下深くに封じられて、二度と目覚めることのない眠りにつかされた。

月日は流れ、一人の青年が1人のエルフの少女と出会う。青年の名はピサロ。少女の名はロザリー。二人を中心にして、世界は滅亡へと向かっていくことを、このときの二人はまだ知らない。

※3月7日、記事更新。

ブログ代表
こんにちわ、レトロゲームレイダース/ジョーンズ博士です。

今回発掘した作品は、1990年にエニックス(現スクウェア・エニックス)からファミコン用ロールプレイングゲームとして発売された『ドラゴンクエストIV 導かれしものたち』です。ご存知のとおり、国民的人気作ドラゴンクエストシリーズの第四弾であり、ファミコン最後のドラクエ。物語は、前作で勇者ロトにまつわるシリーズが終わったため、新章に突入しました。

slimeロトシリーズとは別方向を開拓したドラクエ!
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ドラゴンクエストという作品は、そもそも日本のコンシューマゲームにRPGを定着させるために作られた、RPG入門向けのゲームでした。『1』~『3』にかけて、「RPGとはこういうものだ」という認識は、広く受け入れられることになったのは言うまでもありません。

しかし、誤算がひとつありました。それは、「ドラゴンクエストがあまりにもRPGとして完成度が高すぎた」ということ。その結果、「ドラクエ=RPG」という認識が広まり、1990年代のファミコンRPGの多くにドラクエの影響が色濃く出てしまうほど(パチモンっぽいのが数多く生まれた)だったのです。

RPGの面白さを伝えるためが、RPGのイメージを逆に固めてしまった。

そんな背景があったからでしょうか。『ドラゴンクエストIV』は、前作まではまったく違う方向に進化を遂げます。本作の特徴は「五部構成」。このことからも分かる通り、本作は“物語”に特化しました。『III』までが、「主人公=プレーヤーであり、ゲーム信仰の道しるべがイベントであり、イベントの集合体がストーリーの大枠を作っていった」のに対して、本作は「その方針を踏襲しつつも、I章~IV章までに別々の主人公と時間経過を持たせ、さまざまな視点と時の経過で世界の理や冒険の理由と顛末を語っていくこと」となりました。

分かりやすく言えば、過去作が「すべて世界が魔王の危機にさらされて勇者が旅立つ話」だったのに対して、本作では魔王の脅威がない平和な時代からはじまり、少しずつ世界が暗黒に染まっていく様子が描かれ、第五部になってようやく従来通りの勇者の冒険がはじまると思いきや、第五部はもう一人の主人公である魔族の皇子デスピサロの視点が入り、ただの「勇者が魔王を倒す話」にもなりません。見た目は“いつも通りのドラクエ”なのに、その中身は“まったく異なるドラゴンクエスト”だったのです。

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slime五章構成と、多数主人公と、人工知能AI
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『ドラゴンクエストIV』は、そのサブタイトルが示すとおり、『導かれし者たち』の物語です。前作『III』までは4人パーティだったのに対して、8人+1匹のパーティ。続編としては正当なパワーアップなのですが、「私も仲間に加わりましょう」が8回つづいてしまっては芸がありません。そこで、8人にはそれぞれ、旅に出る目的を設け、それを伝える手段が五章構成になったのだと思われます。

8人をいかにストレスなくレベルアップさせていくかという課題についても、五章構成にして、それぞれの物語がレベル1からはじまるという仕組みにすれば、ある程度は解決しまし、何よりも育てるという行為に、キャラクターへの感情移入をさせようという狙いがあったように思えます。

とはいえ、せっかく育てたキャラクターがレベル10を超えたあたりで物語が終了し、再び次の章の主人公をレベル1から育てるというのはしんどいもの。そこで本作は、第一章は単身主人公、第二章は三人パーティ制、第三章はトリッキーな商人、第四章は魔法使いだけパーティの縛りプレイ…と趣向を変えるといった工夫が見られます。

そして第五章では、いよいよ一章から四章までの仲間を集めて、大パーティを作っていく物語のはじまりです。しかし、ここで「?」なことがひとつ。それが、第五章から導入された「人工知能AIによる戦闘」でした。

ファミコン版において、人工知能の搭載はずいぶん前から広報されていたもの。それは、仲間が増えることによって作業が戦闘において増える作業の手間を省くためのものだとばかり思っていました。しかし、戦闘に参加できるのは4人まで。前作と仕様がいっしょなのに、プレーヤーが自由にコマンド選択をできない。加えて、人工知能は、ある程度の戦略の方向性を「作戦」というカタチで指示できるものの、基本的にはアホなので、MPの無駄遣い、非効率的な振る舞いばかり。神官クリフトがザラキだけをかけまくったり、魔法使いブライがヒャダルコばかり使いやがる。結果、不自由さだけが目立っていました

これはどういうことなのでしょうか。

あくまでも憶測ですが、人工知能AIの導入について、堀井雄二さんにはこんな思惑があったのではないかと思われます。

ひとつは、戦闘作業の軽減化
五章構成になったことで、本作のプレイ時間は伸びています。加えて、同じレベル上げを第一章からくり返し4回も行なっているわけですから。「そろそろ戦闘に飽きる」という感情が湧いてもおかしくない。その対策として、仲間の行動はすべて人工知能がやって
くれるようにしたというもの。

もうひとつは、あえて不自由さを作った
人工知能AIによる戦闘は、ただの「オート戦闘」とは違います。人工知能は、いろいろなことを試して、学習していくプログラムなのです。なので、上記のアホな行動は、はじめての敵に対して発生することですが、複数回同じ敵と戦っていると変な行動を慎みます。そればかりか、もっとも効果があった行動を選び、対応するのです。最初はちぐはぐしていた仲間が、旅を重ねるごとに息の合う連携を見せるようになる。こんな仕組みを理想としていたのではないかと思うのです。

サブタイトルが『導かれし者たち』であるように、「仲間」にスポットを当てた作品なのは間違いありません。ともすると、コンピューターRPGにおける「仲間」は、ただの戦力や記号という扱いになりがちです。前作は自分でイチからキャラクターメイキングしたからこそ愛着を持ちました。しかし、本作の仲間たちは与えられたもの。そんなプログラミングによるいくつかのパラメーターとドット絵で構成された者たちに、なんとか仲間としての息吹きを与えたいという意思があったのではないかと、私は思うのです。

であるとするならば、五章構成にした理由もうなづけます。ただ物語を伝えるだけでなく、各キャラクターについての知識を与え、愛着を湧かせる機能にもなるからです。

しかし残念ながら、この二点とも上手くいきませんでした。

これも憶測ですが、人工知能の学習速度と、レベルアップによる新しい呪文の習得、各パラメーターの上昇などのバランス調整が上手くいかず、理想とは異なり、人工知能AIによる戦闘は不自由さだけが目立つ結果になってしまったのです。

ところが、思わぬ副産物が生まれました。それは、人工知能によるアホな行動が、キャラクターたちの性格としてプレイヤーたちに受け入れられたこと。このことが、『ドラゴンクエストIV』は、シリーズの中でもキャラクター人気の高い作品になった理由のひとつともいえるでしょう。

slime光と闇!宿命づけられた二人の物語
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『ドラゴンクエストIV』の魅力のひとつは、主人公とデスピサロという、まるでコインの表と裏のような二人の物語である点です。

デスピサロの名前は、第一章からチラリチラリと出てきて、どうやら「魔物たちを率いているボス級のキャラクターらしいこと」がうかがえます。第四章に行きつくと、超強力な敵バルザックやキングレオをも従えていることが分かり、第五章のオープニングで最愛の女性シンシアを殺害されるという決定的な出来事が発生し、主人公にとってデスピサロは、絶対に許すことができない復讐の相手となるのです。

そんな魔物に対して憎しみの炎ばかりを燃やす主人公の心を静めたのは、導かれし仲間たちでした。あらためて自分の使命と向き合い、仲間たちと旅を進め、困難に打ち勝っていくごとに、主人公は点から授けられた破邪の性質を高めていくのです。

ところが、旅の途中で主人公たちは、ある事実を知ってしまいます。

デスピサロが人間に対して憎悪を燃やしている理由、それは一人のエルフの少女を守るためでした。不思議な力を持ったそのエルフの少女ロザリーは、泣くと宝石の涙を流すことから、人間に見つかると虐待を受けてしまう。彼女を傷つけるものがいなくなるように、魔族の皇子ピサロはデスピサロと名を変え、人間を滅ぼすために古より眠る「地獄の帝王」とよばれる“何か”を起こそうとしていたのです。

ロザリーの姿、それは主人公が愛していた女性、エルフの少女シンシアとそっくりでした。そこで、主人公はあらためて、自分のピサロの間にある宿命を感じるのでした。

「ピサロとは対話が可能だ」ということに気付いた一行は、なんとかピサロに会うために走ります。しかし、すでに魔界全軍を動かしたピサロの計画は佳境に入っており、その動き出した運命の歯車は、ついに地獄の帝王の発掘に成功してしまいます。相手はかつて地上を破壊しつくした悪魔。こんなものが地上に出てしまっては大変なことになる。主人公たちは死力を尽くした戦いで、なんとか復活を阻止しました。

そこに現れたのがデスピサロ。彼は自分が立ててきた計画が水の泡になったことを悟り、体制を立て直すために一時退却をします。そんなピサロにさらなる不幸が襲いかかるのです。主人公たちがロザリーと会うためにピサロナイトを倒したために、ロザリーは人間たちにさらわれ、大変なことに。ピサロが駆けつけた時にはもう手遅れでした。腕の中で体温を失っていくロザリー。ピサロの絶叫がロザリーヒルにこだまします。

最愛の人を失い、すべてを失ったところから、仲間を集めていく天空の勇者。天空の勇者に、有能な部下たちを撃破されていき、最愛の人まで失ってしまうピサロ。

まさに、正反対の生き方の二人。しかし、注目すべきは、ピサロは勇者の存在がなければ計画を進めなかったし、勇者もピサロがいなければ覚醒はなかったという点。運命に仕組まれた皮肉というべき二人。このあたりの展開こそ、『ドラゴンクエストIV』の神髄といえるでしょう。

ファミコン版では、追いつめられたピサロは最後の手段として未完成である進化の秘法を用いて、自らを第二のエスタークへと身を堕してしまいます。一方、リメイク版では、ピサロ救出ルートとして「第六章」が存在します。悲劇として終わらせたほうがいいというファンは第六章については否定的ですが、私は賛成派です。なぜなら、エンディングでシンシアだけがよみがえるという演出に違和感が拭えなかったから。

ピサロはただの哀れな男、悲劇の皇子ではない。こうなったかもしれないという主人公の「IF」の存在なのではないでしょうか。では、主人公とピサロとは何が違ったのか。そう考えると、「導かれし者たちという仲間がいたから」という結論になりがちですが、それもまた、「ワンピースかよっ!」的な浅い結論だと思うのです。すべての事
象に白黒は付けられない。どんな種族・どんな思想にも、例外もあり得る。そのような結論に至る第六章の展開は、個人的には高評価しています。

slimeのんびり世界を味わいつくそう
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『ドラゴンクエストIV』を楽しみつくしたいなら、早解きはお勧めできません。どの町にもきちんと訪れ、ちゃんと人々のセリフにも注目しましょう。章をまたいで同じ町が出てくること多いが、ほとんどの住人のセリフが変化しています。このあたりに、プレーヤーに時間の流れを感じさせる仕掛けが施されているのです。

中には、あるところで別れた人物が、その後、ずいぶん離れた町で再会することになり、あの後どういうことになったのかが判明するといったことも。また、第四章で出てくるアッテムト鉱山にいたっては、行くたびに状況が悲惨になっているということも。

このような変化を楽しんでこその『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』。ピサロをも操っていた真の敵の、完成された進化の秘法にぜひ挑戦してみてください。

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