【名作発掘】 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』――孤独な少年時代を送った主人公の、“家族をつくっていく物語”。

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強き心は、世代をこえて。

ブログ代表
こんにちわ、レトロゲームレイダース/ジョーンズ博士です。

今回発掘した作品は、1992年にエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたスーパーファミコン用RPGの『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』。ドラゴンクエストシリーズの5作目であり、第二期シリーズ天空編の第二弾、スーパーファミコン初のドラゴンクエストということで、発売の2年くらい前からファンの期待はドラゴン斬りのようにうなぎ昇りでした。

そんな本作は、シリーズ初の「モンスターを仲間にできるシステム」を搭載。ゲーム途中で主人公が生涯の伴侶を選ぶという「結婚」というイベントも。武器・防具の7~8割はこれまでのシリーズにないものであり、旅の途中で新しいレベル1の仲間がポンポン加入し、ルイーダの酒場と馬車の間で壮絶な1軍・2軍・3軍争いがあるという、これまでのドラゴンクエストから大きな変化があった作品でした。

本作がなければ、後の『テリーのワンダーランド』、『マルタのふしぎな鍵』、『キャラバンハート』、『ジョーカー』、『スーパーライト』といったドラゴンクエストモンスターズシリーズも生まれなかったかもしれません。

そんな本作ですが、スーパーファミコン版が発売された当時の印象は、ぶっちゃけ、「今度のドラクエ、なんかビミョウじゃね?」でした。

slime 面白いのに、なんでこんな空気になっているんだ(怒)!
redline

なぜ、ビミョウな空気になったのか?

それは、この作品が発売される前にゲーム雑誌に情報が出まくっていた『ファイナルファンタジーV』の画面が超絶キレイだったのに対し、ドラクエVの画面はファミコンで出ていたドラクエIVからあまり進化しているように見えなかったからだと思います。実際は、先に記述したとおり、システムは大きく変わっているし、戦闘も黒一色から背景がついて雲もスクロールしているんですけどね。

古き良き伝統を守り、システムは大きく変わっちゃったけどみんなが知っているドラゴンクエストだよ、と思ったアピールがすべて「古臭い」と印象づけてしまったかのような、そんな空気があったのは確かです。かくいう私も、「FFにくらべると、なんかダセェな!」と思っていた一人でした。

堀井雄二さん、本当にすみません。当時のオレは、この作品の凄さにまったく気がついていませんでした。m(_ _)m

slime 親子3代の物語である理由を考えてみた
redline

『ドラゴンクエストV』において、「3」という数字は重要な意味を持っています。これは、タイトルロゴの「V」の字にかかっている3つの輪の意味でもありますが、「3つの世代」、「3つの世界」、「3つの指輪」の意味だそうです。

ここにおいて、私が注目したのは「3つの世代」というところ。

本作は、主人公の人生というべき物語が展開します。「少年時代」⇒「青年時代」⇒「親としての世代」という時間の流れがあるのです。なぜ、このような形式になったのか。それは、ドラゴンクエスト天空編に課せられたミッションのためと私は推測しています。

そもそもドラゴンクエストというゲームは、「RPGの入門編」としてファミコン用に作られたゲームです。そして、その役割は『III そして伝説へ…』で終わりました。そしてはじまった『IV 導かれし者たち』は、「ファミコンでもここまでできるんだぞ」という意欲作であり、特にストーリー面の強化に、強い意志を感じる作品だと私は思っています。何せ五章構成にして、10年以上にわたる物語を、しかも複数主人公の視点で描いているのですから。

そんな『IV 導かれしものたち』を受けて、『V 天空の花嫁』は別の方向性での「物語の広がり」を求めたのではないでしょうか。ただ万遍なく、ワールドマップを移動するのではなく、時間軸での変化を加え、RPGのストーリーに厚みを持たせたのだと思います。

『IV 導かれし者たち』では、五章構成による複数主人公という形式をとりました。『V 天空の花嫁』では、一人の主人公の人生を通しての旅という物語にしたのです。後に、堀井雄二さんはインタビューで、「Vはやりすぎた」とおっしゃっていましたが、「主人公=プレーヤー」というドラゴンクエストの不文律を壊しかねない、大胆な決断だったと思います。

そんな『V 天空の花嫁』は、シリーズでもっとも、プレーヤーのマクガフィンを意識したゲーム構成になっているようです。マクガフィンとは、物語を進めるための主人公の行動の動機づけのための仕掛けです。これは、「もう町の人の話でゲームの道筋を示しても、プレーヤーはゲームにのめり込まない」という計算があってのことでしょう。青年編がはじまってすぐのマクガフィンは、「あれから故郷はどうなっているのだろうか」、「幼馴染のビアンカはどうしているだろう」であり、親になってからは「ビアンカはどこに行ってしまったのだろう」という気持ちがそれにあたると思います。

なぜ、このような仕掛けを作ったのか。それは、本作においていっしょに旅をするのは、冒険の目的が同じ仲間ではなく、”家族”だからです。もし、この仕掛けがなかったら、ただの仲間と何も変わりません。

そして、本作にはもうひとつ大きなマクガフィンの仕掛けがあります。それは、主人公の人生を描くことで、不幸な少年時代をプレーヤーに伝えることができたという点です。主人公には、フツウの家族のだんらんが一切ありませんでした。父パパスはやさしく描かれていますが、いつもちょっと寂しい状況がつづいていた。それは、仲間になった親友が早々に離脱するという別れがあるといった物語的にもそうですし、パーティの戦力という点でも同様です。だからこそ、「賑やかにしたい」という心理が生まれ、
それがゲーム後半の「モンスターを仲間にする」ことへのモチベーションになっているのです。

そう、モンスターを仲間にすることは、パーティの戦力補強ではありません。主人公が手に入れられなかった”家族”をイチからつくっているのです。

そう考えると、「ドラクエVの主人公の生い立ち、不幸すぎ、ワロタw」なんて、とてもじゃないですが言っていられません。

つづく

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