シリーズが完結してからのシリーズ人気加熱。いわば、『イースIV』は時代の流れによって作らされた作品だった。オリジナル原案をオリジナルスタッフがすでにいない日本ファルコムが担当。開発をハドソン、トンキンハウス、セガが担当し、 それぞれ別ハードで発売されることに。そんな中でもっとも注目を集めたのが、名作『イースI・II』を送り出したPCエンジンによるハドソン制作の本作。SUPER CD-rom2を使ったハドソンオリジナル『イース』の実力、さあ、見せてもらおうか。
※11月25日、更新
こんばんわ、レトロゲームレイダース/ジョーンズ博士です。
今回発掘した作品は、ハドソンが1993年12月22日に発売したPCエンジンSUPER CD-rom2用アクションRPG『イースIV Dawn of Ys』。今日まで続くイースシリーズの4作目であり、時系列は3作目の『ワンダラーズ・フロム・イース』の前とややこしい作品です。
さらにややこしいのが、イースシリーズの生みの親である日本ファルコムによる原作が存在せず(1993年時点では)、日本ファルムの原案に沿ってハドソンが開発。オリジナルのアイデアをドンドン入れて、原題は『Mask ofthe Sun(太陽の仮面)』だったのに、『Dawn of Ys(イースの黎明)』にしてしまったという、「イースの人気をパコンシューマで牽引してきたのは俺たちだぜ!」というハドソンの意気込みが感じられる作品でした。
書き方に毒があることから、私が本作に対していい感想を持っていないことがバレてしまいそうですが、それは半分事実です。なぜなら・・・おっと、このあたりはおいおい説明していきましょうか。
結論から言うと、『イースIV Dawn of Ys』は出来のいいゲームです。PCエンジンでも傑作の分類に入るアクションRPGだと思います。では、イースの続編としてはどうかというと、落第点と言わざるを得ません。
なぜか。
一番大きいのは、ハドソンが付け足したオリジナル部分(特にストーリー部分)があまりにヒドイからです。どれくらいヒドイかというと、「お前、イースI・IIやったことないだろ?」レベルであり、あざとい+質の低いファンサービスのせいで、原典である『イース』が汚されまくっています。
具体的にどこかといわれると、一番許せないのは魔導師ジーク=ファクトというハドソンオリジナルキャラクターが太陽の仮面の制御に使う月の仮面(MASK OF EYES)を盗み出し、古代セルセタ王朝を滅亡させた後、イースに渡り、そこで古代イースも滅亡させた。本人は月の仮面の力で生きながらえ、ダルク=ファクトと名前を変えたというくだりですかね。
バカヤロウ。
俺たちイース原作原理主義者たちはだな、ダルク=ファクトはどの神官の末裔よりも純粋で、純粋すぎたからこそ人間に絶望し、女神の予言にある勇者の訪れを信じて、自らの身を魔に堕としたという設定に惚れているんだよ。誰だよ、ジーク=ファクトって。ダサイ名前のくせに、セルセタ王朝と滅ぼしてイース滅ぼして目的もなく700年も生き続けているってニートか、ニート魔導師か。
あと、あれだ。フィーナ。『II』のエンディングで、あれだけ最高の別れ方をして、二度と会えないからこそ、フィーナは永遠になったのに。2年後に女神像の前に来たら「おひさしぶりです、アドルさん」って、本当にどうなっているんだよ。アホか。『II』の感動を返せ。ボケが。
それからあれもだ。ラスボスのアレム。なんじゃ、ありゃ。ネーミングセンスが悪いんだよ。エルディールが倒れるという流れはいいとしても、そこまでして復活させるべき目的と意味がないんだよ、アレムには。ネーミングといえば、『Dawn of Ys』の敵の名前は全部ダサイんだよ。イースの魔物の名前ってのはだな、ちょっとオリジナル入っていてかっこよくないと駄目なのよ。「~リオン」とか「~ティモス」とか。それが「Mother of Monster」とか変な名前つけやがって。
レオ将軍のレオ装備が最強というネタも、センスがまったく感じられない。
他にもいろいろあるわけですが、『ファザナドゥ』と同じですよ。名作『ザナドゥ』に「俺たちが考えた面白いことをいろいろと付けようぜ」とやった挙句、ザナドゥじゃないモノを作り上げちゃった。出来はいいけど。本作も同じ。イースじゃないイースっぽい出来のいいアクションRPGを作ったという感じなのです。
ハドソンの功績
では、『イースIV The Dawn of Ys』は「やるべき価値のない作品なのか」というと決してそんなことはありません。ゲームスタートしてのプロマロックの港の先。フィールドに出てからの半キャラずらし戦闘は、まさにイースです。また音楽がいい。これぞイース!というズンダカ節がきいていて、その旋律に乗って、カシッカシッカシッ…ザシュッとやっていく様は、夢にまで見たイースの新作なのでした。
「お前、さっきと言っていることが違うじゃねえか」。
そんな風に言われても仕方がありません。しかし、「認めたくないけど、アタイ、こいつのことが好き」という複雑な感情を抱かずにはいられない。それが、『イースIV The Dawn of Ys』という作品なのです。
時代背景から説明をしましょう。
一作目の『イース』が発売されたのが1987年、続編であり完結編の『イースII』が発売されたのは1988年。その翌年に外伝という位置づけで『WANDERERS TROM Ys』が発売されます。『WANDERERS TROM Ys』はゲームデザインを大きく変え、サイドビューの横スクロールアクションRPGになっていました。この仕様変更は発売当初からファンの中で意見が割れ、肯定派と否定派に分かれて熾烈な議論がくり返されたものです。ちなみに私は肯定派でした。イースシリーズが冒険家アドル=クリスティンの冒険を描
くシリーズならば、冒険の内容によって描き方が変わっても構わないという考え方だったからです。そして、1989年からイースシリーズは沈黙を守り続けます。
その間、シリーズのファンたちは何をしていたのでしょうか。イースをやり続けていたのでした。ファミコン版イースが出ると聞いては購入し、「こんなのイースじゃねえ!」と猛り狂い、セガマークIII版イースが出れば購入し、「イースIIはいつ出るんだ!」ともだえ苦しみ、PCエンジンでイースI・IIが出ると聞けば購入し、「やっぱりイースっていいよね」と頷きあったのです。
何が言いたいのか。すべてのイースファンにあったのは「ロスト・イース」という飢餓感でした。ゆえに、I・IIと同じトップビューの半キャラずらし戦闘の『イースIV The Dawn of Ys』は、心のどこかで待ち望んでいた、でも諦めていたイースの新作だったのです。
ゆえに、ハドソンが勝手に付け加えやがった原作を冒涜する要素が許せない!、と同時に、無理だと思っていたイースの続編を作ってありがとう!という気持ちもあるのだと思います。
本作は、セルセタの樹海と呼ばれる広大なエリアをまわっていく物語です。フィールドがこれまでのシリーズでもっとも広いため、プレイ時間も20時間クラスと、長く遊んでいられる初めての『イース』でした(これまでの作品は8~10時間でクリアできた)。
『イースI』はエステリアという島国を探索する作品、『イースII』はイースという国をサルモンの神殿目がけて駆けていく作品だったのに対し、本作はその両方の特徴を取り、広大なフィールドを探索していく作品。ゆえに、フィールド曲が多く、ズンダカ節を満喫することができます。その一方で、舞台がセルセタの樹海とはいえ、森林ステージばかり続いていてはユーザーが飽きてしまうがゆえに、いろいろな冒険のステージが用意されています。されているのですが、その配慮のために、“セルセタの樹海”感が失われてしまっている気もします。
ゲームシステムも、『イースI』に出てきたリングと、『イースII』に出てきた魔法の両方を使うことができるいいところ取り。さらに、最終局面で必要になるのは、イース同様に、有翼人がもたらした“物言う石(黒真珠)”によるオリジナルの最終魔法(黄金都市にふさわしい魔法)が登場するなど、燃える展開が待っています。ドギは相変わらず壁を壊しますし、リリアは結構活動的だし、ルーに変身することもできるなど、実にイースしています。崩壊しつつあるダームの搭で、操られたキース・ファクトとダルク・ファクト戦を思わせる戦いがあるなど、グッとくる要素も。スーパーファミコン版、プレイステーション2版、そして本家・日本ファルコムによる『セルセタの樹海』でも楽しめない要素があるのは、『Dawn of Ys』だけだったりします。
フィーナ派であり、イースシリーズでアドルがずっとヒロインの女性と結ばれないのはずっとフィーナのことを引きずっているからだと思っている私にとって、エンディングのあの描写は、PCエンジン版『イースI・II』のエンディングのリリアとキスシーン同様に「ぐぬぬっ」であり、本作を認められなかった私はその後イースIVを求めて20年ぐらい思考の樹海をさまようことになるのですが、今、プレイしてみると、やっぱり面白い作品です。
記事の中に、今なお引きずるいろいろな想いが見受けられたと思いますが、そこも含めて、忘れられない作品なのが、私にとっての『イースIV Dawn of Ys』なのです。