
この記事は、『ファイナルファンタジーIV』のストーリーについて深く掘り下げて考えてみることで、作品の魅力を再評価・確認してみようというものです。ネタバレあり。ちなみに、私はFF4のストーリーについては高い評価はしていないので、本作が大好きな人にとってはディスっている記事に見えるかもしれません。あらかじめご了承ください。
こんばんわ、レトロゲームレイダース/ジョーンズ博士です。
この記事は、レトロゲームのストーリーから作品を掘り下げてその魅力を発掘してみようというもの。今回は、スクウェアが1991年に発売したスーパーファミコン用RPG『ファイナルファンタジーIV』のストーリーについて、深掘りして考えてみようと思います。
『ファイナルファンタジーIV』は、ゲームとしてはすごく面白いのですが、ストーリーに関しては結構ムチャクチャで、低品質のライトノベルと同レベルと思っています。
そう感じる大きな理由が、「登場人物たちの行動に理解・共感ができないこと」。
これは脚本としてはかなり致命的。しかし、ゲームとしては有り。上記のことがあるがゆえに、プレーヤーは画面の中でくり広げられる物語を神の視点で観ることができるわけで、これにスクウェアの伝統芸である派手めな演出が加わり、「映画的演出のゲーム」というポジションが確立されることになりました。
それは、当時ライバルだった『ドラゴンクエスト』シリーズが、「主人公=プレーヤー」「プレーヤーのゲームへの没入感を大切にする」というスタンスをかたくなに守っていたのに対して、USP(商品差別化要素)を形成することに成功したと言えます。
いわゆる「人形劇」と揶揄される『ファイナルファンタジーIV』の強制イベントは、当時は物珍しかったのです。
優れた脚本は、物語の登場人物の役割が明確なもの。しかしゲームの場合は、物語よりもゲーム性を重視して登場人物が作られるため、物語にとって役割がなくても、ゲーム的には役割がある登場人物がいるといったことが往々にして起きます。
その典型が、『ファイナルファンタジーVI』や『ファイナルファンタジーVII』であり、そこにストーリー性を強化していくものだから、ある種、歪なことが起きてしまうのですが、その話はまた別の機会に。
本作においては、物語における登場人物の役割がある程度考えられているにも関わらず、ゲーム的な演出やセリフの取捨選択によって大部分が見えない状態になっており、結果としてストーリーが低品質のライトノベルと同レベルになってしまっていることが個人的には歯がゆいところです。
前置きが長くなりましたが、『ファイナルファンタジーIV』のストーリーを掘り下げることで、作品の魅力を発掘することが今回の目的となります。
「光」と「闇」の戦いの物語です。ゆえに、力の象徴であるクリスタルにも、「光のクリスタル」と「闇のクリスタル」が存在します。
主人公セシル・ハーヴィとラスバスであるゼムスは、同じ月の民でありながら、セシルは陽の力「愛」を得ることで聖騎士となり、ゼムスは陰の力「憎」を得ることで完全暗黒物質ゼロムスとなる。この対比構造に、作品のテーマを感じます。
ここ、結構大事なところだと思うのですが、本作においては、ゴルベーザの存在感、カインの裏切りのインパクトが強すぎて、対して黒幕であるゼムスの存在が希薄すぎるので、言われるまで気が付かない対比構造になってしまっています。
本作は、主人公セシルの成長物語として、かなり面白いポテンシャルを秘めています。
セシルの苦悩は、ゲーム序盤から頼んでもいないのに独り言でブツブツ語られるのでなんとなく分かるのですが、要は「胸を張れない俺はダメ」という陰キャなのです。
自分に自信がありません。だから、好意を抱いてくれるローザに対して、一歩踏み出せないだけでなく、拒絶すらしています。本当は自分の問題なのに、暗黒騎士と白魔導士という属性のせいにしたりしなかったり。
そんな自分から動こうとしなかったセシルが、とんでもない状況に巻き込まれることによって、やや強制的に「自分は何がしたいのか」、「何をしなければならないのか」を考えるようになり、やがては過去の大きな過ちを向き合うという試練を受けることに。
その自分の中での戦いの中で過去の自分を肯定する(受け入れる)ことを学び、同時に強さを手に入れ、装備も履歴書も真っ白になって、ローザともきちんと向き合うようになるという話です。
陰キャなら陰キャと分かりやすく描かれていればいいのですが、飛空艇団「赤い翼」の団長というスクールカースト上位っぽいステータス、天野喜孝さんによる化物みたいな公式イラストもあって、卑屈になる性格に見えません。
彼の悩み事はジャニーズジュニアの「女の子とどういうデートすればいいか分からない」という悩み事くらい、我々平民には頭に入ってこないわけで。こういうところが、本作の魅力の埋没ポイントだと私は言いたいわけです。
セシルの親友である竜騎士カインは、タイトルロゴにもなっていることから、本来は物語においてもっと重要な位置にいてもおかしくないキャラクターだったかもしれません。
物語的には、実はカインはローザのことを愛していたが、親友のセシルとローザが相思相愛であることを知っていたため、自分の思いを密かに隠しているという設定。しかし、ゴルベーザによって弱みを見透かされたカインは、その弱みから暗黒面に心を支配され、セシルたちを裏切ってしまいます。
一度ならず、まさか二度までも。奴に装
備したディフェンダーは二度と戻ってきませんでした。
しかし、カインは騎士団長から平騎士にまで一気に降格させられたセシルに付き合うほどの男。騎士団長→平騎士への降格は、一般企業に例えると、課長→新入社員と同レベルへの降格と予想されるため、年収700万円→年収300万円といったところでしょうか。
なかなかデカい損失です。
それでも格下の兵士に任せればいい危険な任務に付き合うというのは、セシルに対して本当の友情がなければできないことでしょう。いや、親友のために年収700万円→年収300万円の冒険が果たしてできるでしょうか。できるとしたらそれは本当に友情なのでしょうか。BLではないでしょうか。いいえ、きっとBLなのです。
カインが竜騎士になったのも、ひょっとしたら、親友とか、性別とか、常識とか、そういうものを「ジャンプ」で飛び越えるためだったかもしれません。
そんな秘めたる思いを利用するなんて、ゴルベーザ、そしてゼムス。恐るべしなのです。
今回はここまで。
『ファイナルファンタジーIV』はゲームの演出が未熟であるため、フツウにプレイしていると気が付かない要素がたぶんにありますが、よく見てみると、なかなか面白い作品です。何かの機会にやり直すことがありましたら、ぜひ、人間模様に注意していただければと思います。