父親って、ソンな生き物だと思うんですよね。
自分が父親になって、それを実感する今日この頃です。父親っていつも家にいないから、子どもはいつも一緒にいるお母さんが大好きなんですよね。奥さんに言わせると、「たまにいいことをすると子どもの中で株が急上昇するイイトコ取り」らしいのですが、父親が子どもにの尊敬を集めるチャンスって、「入手困難な誕生日プレゼントを手に入れるミッション」ぐらいしかないんじゃないかと思います。
これは、1986年の話です。
教育熱心だった両親がディスクシステム購入を許可してくれたのは、学校の成績で親が定めるハードル以上の好成績を俺がおさめたからでした。全盛期の俺のゲーム愛をなめるなよ。ゲームのためならオールAも余裕です。
そんなわけで、ディスクシステムを買いに行くことになりました。
しかし、ディスクシステムは当時人気商品であり、行きつけのおもちゃ屋でも「入荷するか分からない」という状態。それならばと、当時「日本一の電気街」といわれていた秋葉原に、俺とお父さんは向かいました。
お父さんは、石丸電気をはじめとするお店を一軒ずつまわり、店員に「ディスクシステムはありませんか」を聞いていきます。ところが、どこの店員も首を横に振るばかり。最初はウキウキ&ワクワクしていた俺ですが、そんなことが何軒かつづいていくと次第に、「ひょっとして、今日は手に入らないんじゃないか?」と、不安が胸に広がっていきました。そして、そんな不安を誤魔化すように不機嫌になっていったのです。
「ねえ!ディスクシステムはまだ?」
そんな風にお父さんに詰め寄る俺は、なんて可愛くない子どもだったでしょう。ですが、お父さんはそんな私に少し困った顔をしながら、「もう少し、もう少しだからな」と謝りながら、次のお店に向かいます。俺は歩き疲れてすでに足が痛くなっていました。「このままディスクシステムが手に入らなかったら疲れ損だ」。そんなことまで考えていました。
俺は父が40歳のときに生まれた子どもです。
父は、愛想がいいほうでも、子どもに慣れたタイプの人でもない人でした。だから、家でも積極的に俺に構うほうではなく、俺の好きなマンガ・ゲームの話題に付いてこれません。だから、私の中で「父親は頼りない」という印象が出来上がっており、このディスクシステムに出あえない状況から、「今日は手に入らないという結末」が想像されたのでした。
すでに足は棒のようになっており、どこかで休みたいところ。しかし、当時の秋葉原には、スターバックスカフェはおろか、マクドナルドも、喫茶店すらもありませんでした。ふてくされて、足をブラブラさせてまじめに歩かなかった私。父はちょっと困った顔をしながら、私を歩道に待たせて、ガード下の薄暗い露店のようなところに入っていきました。
(ふん、そんなところにあるもんか。ファミコンはおもちゃ屋か電気屋さんにあるんだから)
そう思っていた矢先、父親が暗闇から顔を出し、私にむかって「おいで、おいで」をしました。そのお店はおよそお店らしくなく、機械や配線の匂いがしました。その奥、
「これでいいんだよな?」
と父親が指差す先に、グレーとイエローの素地にディスクシステムの写真の載ったパッケージ。それはまさしくディスクシステムでした。
コクン!コクン!と大きく何度も首をタテに振る私。父は財布からお金を出して会計をすませます。店主さんは商品を包装紙でつつみ、手提げ袋に入れて私に渡してくれました。
両手にかかる重量感。それは、ぎっしりつまった夢の重さに感じました。まさに、“夢いっぱいディスク”です。
お父さんってスゴイんだ!
幼く愚かな俺は、このとき父親を本当に尊敬しました。ディスクシステムを手に入れたという事実よりも、自分との約束を果たしてくれたというところに、「本当にすごい」と感じたのです。
普通の玩具店・家電量販店においていなかった商品を、ちょっとアングラっぽいところに足を踏み入れて(しかもそういうところを知り尽くしているような落ち着いた佇まい)、目的を遂行する。そのとき、まさしく父親は、俺にとってヒーローになりました。
遅い昼食を、JR秋葉原駅の昭和通口にあった立ち食いそば屋ですませました。たしか父親と二人、ざるそばを立ちながら食べた記憶があります。その日はずっと立ちっぱなしで疲れているはずでしたが、もう疲れは感じませんでした。その後、父にキップを買ってもらい、ふたたび電車に揺られて帰路へ。
「家に帰ったらやるのか?」
「どんなゲームがあるんだ?」
お父さんはそんなことを聞いてきました。どうせ話したって、ゲームのことなんて分からないくせに。それは分かっていましたが、俺はお父さんに、「スーパーマリオブラザーズ2がどれほど手ごわくなっているか」「謎の村雨城が和風ゼルダの伝説っぽいか」、そんなことを熱く語りました。
父はやっぱりよく分かっていないようでしたが、嬉しそうに聞いていました。その理由は今なら分かる気がします。たぶん、俺がとても楽しそうな顔をしていたからなのでしょう。
「重そうだな。持ってやろうか?」
家に着くまで、何度も父に聞かれましたが、俺はフルフルと首をヨコに振りました。子どもながら父にこれ以上迷惑をかけたくなかったのです。「ここから先は自分の仕事」だと思ったからでした。
手のひらにヒモの跡をたくさんつけながらも、家まで持って帰りました。でも、本当にやらなければならなかったことは、そんなことじゃなかったんですね。でも、当時の俺には恥ずかしくて言えませんでした。俺がその時本当にやらなければならなかったこと、それはたったひと言のお礼。
「お父さん、ありがとう」
そのお礼の言葉は、それから25年後。かわいくなかった息子が社会人になって本当にかわいくなくなって、頼りがいのある父が膵臓ガンで寝たきりになっていて亡くなるちょっと前の病室で、ようやく言うことができました。
ファミコンとディスクシステムには、こんな思い出があります。
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