
こんにちは、レトロゲームレイダー/ジョーンズです。
今回発掘した作品は、1990年にエニックスからファミコン用ロールプレイングゲームとして発売された『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』。「勇者ロト編」が前作で完結したのを受けて、今作からは世界設定が変わり、新たに「天空編」がスタートします。それは、コンピュータロールプレイングゲームの面白さを伝えるという役割を終えたドラゴンクエストが、新たな挑戦に挑む物語の始まりでもあったように思えます。
さあ、今宵も、歴史に埋もれしレトロゲームの魅力を、掘り起こしていこう――。
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』とは
堀井雄二さん曰く、「『IV』は作るかどうかを悩んだ」と当時のファミリーコンピュータマガジンのインタビューで答えられていたのを記憶しています。これはどういうことなのか。当ブログにおけるドラゴンクエストシリーズの記事では何度も書いている通り、「1980年当時、パソコンで流行っていた大人向けのコンピュータロールプレイングゲームの面白さを、ファミコンで遊ぶ子どもたちに伝えること」が目的だったことと考えると、堀井雄二さんの言わんとしていることも分かります。ドラゴンクエストシリーズの当初の制作目的は、前作『ドラゴンクエストIII』でほぼ果たされたということなのでしょう。
ドラクエが呼び水となって、1980年代後半のファミコンゲームはたくさんのRPGであふれ、RPGは完全に市民権を得るに至りました。なので、ドラクエはここで終わる可能性もあったわけです。しかし、大人の事情的な発想をすれば、1本発売すれば、数百万本が売れるヒットタイトルに成長してしまったドラゴンクエストを簡単に終わらせることもできません。ドラゴンクエストは次の目標をつくり、歩んでいかなければならなかったと推測されます。
では、次にドラクエが目指すべき目的とは何だったのでしょうか。それは、まさにその局面に立っていた、この『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』が新たに挑戦したことを分析していくと見えてきます。
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は、全五章構成となっており、第一章から第四章までは導かれし者たちが勇者探索の旅に出るまでの物語が語られ、いよいよ第五章で勇者が主人公となり、第一章から第四章に出てきた仲間たちと出会い、人間を滅ぼそうとしている魔族デスピサロと対決していく…という展開のゲームです。第五章から当時要する馬車は、簡易ルイーダの酒場的機能を持っており、冒険に出るパーティを自由に編成することができます。また、第五章では人工知能AIの導入により、勇者以外の仲間のコマンド選択はできません。プレーヤーは大まかな作戦だけを指示し、細かい判断はすべてAIがやってくれるようになりました。
サラッと書きましたが、人工知能AI導入による戦闘のオート化って、実は前作『ドラゴンクエストIII』の面白さの神髄である、パーティ編成によって戦闘で化学反応的に起こるドラマを否定しかねない決断であることにお気づきでしょうか。「自分で仲間たちの戦闘での行動を考えるのがRPGの面白さなんじゃないの!?」という部分を、ある意味完全否定しているんですよ。どういうことか。つまり、「それは前作で充分にやった。今作ではさらに“先”を行く」という意志が『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』にはあるということです。
人工知能AIによる100%自分の思い通りにならないもどかしさこそが、堀井雄二さんがドラクエシリーズ制作でよく用いる化学反応を起こす今作での仕掛けの1つ。しかし、この人工知能AIはそんなに賢くなく、プレーヤーが「そいつには効かないから使うな!」という呪文を勝手に選択してしまうというトラブルが多発しました。これは「人工知能がアホ」なのですが、あまりそういう書かれ方はあまりしません。「クリフトはザラキばっかり使う」「なんでブライはMP消費の多いヒャダルコを使いたがるんだ」というように、キャラクター名を出して苦笑気味に語られることが多いです。なぜでしょうか。それはプレーヤーには人工知能AIの選択がキャラクターの選択のように印象づけられているから。これが、今作における仕掛けられたもう1つの化学反応。キャラクターを戦闘マシーンではなく、物語の中に生きている人間と感じさせ、彼らと関わるロールプレイを楽しむことが、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』が目指した道ではないでしょうか。
作家の深沢美潮さんは『フォーチュン・クエスト』のあとがきで、ドラクエIIが大好きでキャラクターたちの声が聞こえてくるようだと語っています。たしかに『ドラゴンクエストII』にはそれがあった。しかし、仲間のキャラクターをすべて自分で作る『ドラゴンクエストIII』でそれが難しかった。もちろん、それができる人もいたと思いますが、それはほんの一握りの人だけだと思われます。無からキャラクターの人格を作り出すのって難しいことなので、人にはヒントとなる情報があったほうが人格を想像しやすいからです。では、そのヒントとなる情報とは何なのか。そのキャラクターの「設定」と「物語」です。
長々と話してきましたが、ようやく一周回って本題に入ります。つまり、本作の第一章から第四章は、第五章を楽しむための「設定」と「物語」をプレーヤーに伝えるための仕掛けなのです。なぜ、そんなことをするのか。それは第五章で出あう仲間たちに人格があるかのような幻影を見せるため、そして物語に没入させるためです。つまり、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は、「物語を体験させるRPG」を目指していたと俺は推測しています。
でもこれはまったく新しいことをしているのではなく、きちんと勝算があって行なっていることなのです。前作『ドラゴンクエストIII』は主人公にだけオルテガの息子という設定をつけ、ほぼ一本道のストーリーは「父の背中を追う子の物語」として成立させ、この道中で起こる戦闘時のトラブルをオリジナルのドラマに変換することで成立していました。本作もほぼ一本道のストーリーであることは変わりなく、この道中で起こる戦闘時のトラブルをオリジナルのドラマに変換することも変わりません。しかし、主人公以外のキャラクターや世界の情報量を増やすことで、「物語の中にいる」感を強めたというところでしょうか。
「馬車」と「導かれし者たち」は、『ドラゴンクエストIII』の「ルイーダの酒場」と「さまざまな職業の仲間たち」です。前作にはない新しい職業もありますが、導かれし者たちはそれぞれが「〇〇には弱いが〇〇には強い」というキャラ性能が分かりやすくなっており、パーティメンバーの入れ替えと人工知能AIによる化学反応で、予期せぬドラマが起こるところも同じ。ただ、前作のマーケティング結果で、プレーヤーは1周30時間くらいかかるゲームを何度も周回プレイはしないという結果が出たためと想定されるため(当たり前だ)、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は周回プレイ構想はバッサリ捨てています。2周やってくれれば御の字みたいな。まあ実際、物語のほうに舵をきると周回プレイとの両立は難しい(先が分かっている物語は何度もやりたいとは思えない)ので賢明な判断ではないでしょうか。このように考えると、「馬車」のシステムって『ドラゴンクエストIII』のパーティ編成替えの面白さを簡易的にできるという点で、実に優れたシステムだったりすることに気がつけたりします(笑)
いろいろ書いてきたのですが一番言いたいことは、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は「物語を体験させるRPG」を目指していた、と俺は思うよってことです。
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の魅力
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は「物語を体験させるRPG」を目指していたっぽいという話をしましたが、物語を作る上で登場するキャラクターの動機というものはとても重要です。なぜなら、世界征服や人間界滅亡といった大それたことをやろうとする者は、それなりの理由がなければ、そんな手間のかかることをやろうとしないから。それでもやろうとするのは不自然なのです。ゲームとしての物語性を高めたことで敵にも動機を作る必要が出てきました。そして生まれたのが、魔族の王デスピサロです。
デスピサロは、第一章からその名前が登場し、人間に敵対する魔物をまとめる存在として『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の全編にわたって登場します。プレーヤーの分身である主人公が第五章にしか登場しないにも関わらず、デスピサロは全編にわたって出てくるのです。彼は人間の抹殺を企てており、その手段として太古の昔に竜の神マスタードラゴンによって封印された地獄の帝王エスタークの復活を狙っているのでした。しかし、地獄の帝王をはじめ、魔族には天敵といわせる存在があります。それは、世界が危機に瀕した時にこの世に生を受けると言われている天空の勇者です。この天空の勇者こそが主人公であることが第五章の序盤で発覚します。ところが、デスピサロは天空の勇者が自分の計画の妨げになると考え、何年もかけて天空の勇者を探し続け、ついに主人公が育てられている隠れ里を見つけ、村民すべてを皆殺しにしてしまうのでした。その目的は天空の勇者を抹殺するためでしたが、主人公の幼馴染であるエルフ、シンシアがモシャスで主人公に変装したことで、デスピサロは本物の主人公を討ち損ねてしまうことに。かくして、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の勇者は、親し人たちを殺した魔物とデスピサロへの復讐を心に燃やし血の涙を流すハード展開で幕を開けるのでした。
ところが、そんな『ベルセルク』のガッツのような戦鬼のような道を主人公が歩むことはありません。双子の姉妹マーニャとミネアと出会うからです。彼女たちは主人公同様に復讐のために旅をつづけていますが、それは魔物すべてを憎むものではなく、不当な死に対する権利と責任と基づくものでした。美人姉妹との旅で、イマイチ復讐の鬼としてのシリアス路線に乗り切れない主人公は、人の実業家トルネコ、おてんば姫アリーナ、そのお付きの神官クリフト、魔法使いブライ、戦士ライアンたちという導かれし者たちと出会うことで、人の道を外れることなく、仲間を得たことで勇者として少しずつ覚醒していきます。
ところが、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』では、デスピサロの人類抹殺の動機が語られます。それは、宝石の涙を流すエルフ、ロザリーを強欲な人間から守るためでした。ロザリー自身もそんなことは望んでいない。しかし、暴走したデスピサロの怒りは勢いを増し、世界に住むすべての人間への憎悪に膨れ上がっていたのでした。ここでプレーヤーは気が付くのです。主人公もデスピサロも、エルフのガールフレンドがおり、そのガールフレンドが自分の行動の動機になっていることに。1人は天空の勇者として、1人は魔族の王として、立場はまるで異なるものの2人はまるで1枚のコインの表と裏のような存在だったのです。
「2人の男が監獄の窓から外を見た!1人は泥を見た!1人は星を見た!」とは、フレデリック・ラングブリッジの『不滅の詩』にある一節ですが、事実は1つしかないものの解釈は人の数だけ存在するもの。人間に光を見た者と人間に闇を見た者が、主人公とデスピサロだったわけです。
だからこそ、話し合えば理解し合うこともできたかもしれません。しかし、1枚のコインの表と裏のような存在である2人の運命は正反対に、いや、考えようによっては同じ悲劇を与え、まったく異なる結論に至ってしまうのでした。主人公の天空の勇者が仲間を集め、幹部クラスの魔物を倒していく度に、デスピサロは信頼できる仲間を失い、追い詰められていきます。そして希望である地獄の帝王エスタークまで倒され、最愛のロザリーを人間たちによって殺されたことで、デスピサロの中で何かが壊れ、すべての記憶を捨てて第二のエスタークになってしまうのでした。主人公たちは暴走を止めるために、進化の秘法と黄金の腕輪によって究極生物になってしまったデスピサロの息の根を止めるしかないのです。
どうですか。ヤバイでしょ。今から30年前のファミコンのゲームですよ。
人が旅に出るには動機がある。人が戦うには動機がある。その動機とは物語であり、それが共感できるものであれば、人はその人のことを理解し、その人の存在を身近に感じることができる。仲間である導かれし者たち、敵であるデスピサロだけでなく、世界を構成する人たちに物語を感じられるのが、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の魅力だと思います。
このゲームで一番もったいないプレイスタイルは早解きだと俺は思っていて。すべての町の人に話しかけてみることをオススメします。章が変わるごとにセリフが変わり、いろんなドラマが見えてきます。そこには人間の業があります。愛もあります。本編と関係のないサブストーリーといえるものがいくつも隠れているですよ。容量に制限のあるファミコンのゲームでこんなこともできる。『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は、ガチで取り組むだけの価値がある作品だと俺は思っています。
レトロゲームとしての『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』
ファミコン版『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』は、ファミコンでできることを可能なかぎり詰め込んだ作品であり、グラフィックがパワーアップしているPS1版、ニンテンドーDS版、ゲームアプリ版もありますが、「ファミコンでここまでやった!」を感じられるのが、ファミコン版の良さだと思います。
ただですね。デスピサロとの決着は、アレではダメだと思います。デスピサロをラスボスにしたことで「こうするしかなかった」という天空の勇者の力不足を感じる作品になってしまっている点ですね。もちろん、デスピサロは作中では描かれていませんが相当ひどいことをやっているため、討たれるという最期は自業自得かもしれません。しかし、それでは力でねじ伏せる物語になってしまいます。天空の勇者に求められているものが力だけならば、人の心なんて必要ないはずです。それでも人の心を持って生まれ、悲劇に涙できる感情があるのならば、それには理由があるべきなのです。
そういうわけで、俺はリメイク版で収録されているデスピサロ生還ルート第六章の展開肯定派です。この第六章では、デスピサロを襲った悲劇を裏でコントロールしていた魔物内での本当の敵の存在が明かされるというもの。戦いとは正義と別の正義が対立するものですが、その2つを対立させようとする存在こそが「悪」という文法で、デスピサロを破滅に追いやることで次の王の座を狙っていた第三の魔王が現れます。ファミコン版のエンディング後は幸せな日々が続くわけではなかった。仲間たちを1人ずつ故郷に送っていった後、一人寂しく故郷に戻った天空の勇者のもとに仲間たちがそろって現れるというあのエンディングは、「へへっ、俺たちはずっと一緒だぜ!」という意味ではなく、「大変だ!新しい魔王が現れたぞ!」という意味だったのか!?という解釈にもなるリメイク版第六章は、とても良いです。ピサロには幸せになって欲しいと心から思います。
しかし、完成品よりも未完成品のほうが魅力があるのも世の常であり、そういう意味ではファミコン版『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』には独特の魅力があるんですね。この記事を読んで、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』をやってみたいと思った人、もう一度プレイしてみたいと思った人がいれば、嬉しいです。長々とご拝読いただき、ありがとうございます。
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』で遊ぶ方法
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の世界観を楽しむ
『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の音楽を楽しむ
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