【雑記】レトロゲームの楽しみかた――「お金と時間の使いかた」と「好きという気持ちの総量」について思うこと


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こんにちは、レトロゲームレイダー/ジョーンズです。
気になったことをとりとめもなく書いていく「雑記」シリーズですが、今回はレトロゲームの楽しみかたについて、俺が感じていること・考えていることをお話ししていきたいと思います。

レトロゲーマーとはこうあるべき論はクソ!

レトロゲーム界隈にいると、「レトロゲーマーなら作品をきちんと遊ぶべきものだ!」「レトロゲームを買って並べているという楽しみ方もある!」という論争が一定周期で巻き起こったいたりするものです。

これについての俺の意見は、「人それぞれ楽しみかたがあるのだから、本人が楽しいと思うカタチで楽しめばいい」だったりします。

「正義」の対義語が「別の正義」であるように。どんなに正しいことだったとしても、それを相手に強要した時点で正当性が失われ、単なる相手の自由の侵害になってしまうのは、いろんなことに言えることではないでしょうか。

いい歳した大人の趣味についてのことですから、大人の判断ができるでしょうし、自己責任の上で楽しんで然るべき。なので、「レトロゲーマーはこうあるべき論」は、いくらフォロワーの多い人が言ったとしても、知名度のあるゲームライターが言っても、カリスマのあるゲーム開発者が言ったとしても、持論の強要になった時点で「クソであるなぁ」と思っています。

「クソであるなぁ」と思ってはいるのですが、ここから話すことは持論になります。もちろん、他人に強要するつもりはないのですが、「こういう考えかたもあっていい」ということを示す意図です。

レトロゲームの楽しみかたは「集める」だけじゃない!

SNSを見ていると、「レトロゲームファン=作品を集めている」という印象を抱く投稿が多い気がするのですが、それは1つの楽しみかたではあるけど、「レトロゲームは集めなくても楽しめるもの」でもあると俺は思っています。レトロゲームファンだからいろんなレトロゲームのことを知っていないといけない、いろんなレトロゲームを集めなければならない、ということはありません。自分の好きな作品の好きなところを分かっていればいいのだと俺は思います。

とはいえ、俺はレトロゲーム収集を否定するつもりはありません。1つ面白い作品に出会ったら、他の出会いも求めたくなる。これは自然な心理であり、そこからいろんな作品への興味関心が湧いてくるのは素晴らしいことです。

ただし、「集めること」にはリスクがあります。

「愛」には総量がある!

人間の心のキャパシティの問題だと思いますが、「好き」という気持ちには総量があります。心のキャパシティを100としたとき、1つ好きなゲームがあった時には100のキャパシティで好きでいられるのですが、2つ好きなゲームがあった時、好きという気持ちは50と50に分かれてしまうもの。好きなゲームが10個になった時、1本あたりへの「好き」は10になる…。もちろんこれは、あくまで数字を使った例に過ぎませんが、「好き」の対象が増えた時、好きな作品1つあたりに注げる愛情量が減ることは事実としてあると思うんですよね。

何が言いたいかというと、「好き」の対象が増えるということは、以前好きだったものに対する愛情が薄れることでもある、ということです。

これが、不幸なことなのか・幸せなことなのかは、人それぞれだと思います。愛の総量も人によって違いますからね。ただ、物が増えるということが生活を豊かにするとは限らないのもまた事実ではないでしょうか。

もう少し怖い話をします。「愛」には限りがあるということです。

これはレトロゲームに限らず自分を取り巻くすべての事象に関してですが、「愛」には総量とタイムリミットがあります。若いうちはまったく気にしないし、気配すらもなかったことですが、「愛」は石油と同じでいつか枯渇するものなんです。異性のことも、仕事のことも、趣味のことも、新たに「好き」になれなくなる時が来る。今までの「好き」を維持できなくなる時が来る。そういう一面もあるわけです。

人生はターン制のゲームだ!

ちょっと話がズレるのですが。俺たちの生きる人生はターン制のゲームみたいなところがあって。与えられているターンは、若いうちはピンと来ないのですが、寿命という終わりがあるんですね。俺も知り合いが何人もガンで死んでいきました。そういうのを目の当たりにしていると、いろいろ考えてしまうんですよね。これまでのターンで何をして何を得てきたかで、人生の豊かさみたいなものが変わってくるのかなぁって。

お金の使いかたも時間の使いかたも同じで、これまでのターンで何にいくら使ったか、使った分だけ何を得たかが、人生で得られるものに跳ね返ってくるところがあると思うんですよ。

では、レトロゲームは自分の人生に何を与えてくれるのか。

この問いは、「ゲームは生産的じゃない」「ゲームに生産性を求めることが間違っている」論争にも繋がるのですが、お金と時間をかけて見合ったモノが得られるものがあれば俺はいいと思います。それが「ひと時のストレス発散」だとしても、費用対効果の高いストレス発散なら充分意味があり価値があることです。これまで集めたコレクションをプレイした動画をUPして収益化。これもお金と時間をかけて見合ったモノが得られているのなら「リターンがあった」と言えるでしょう。

そして俺は、このリターンがある状態が趣味が人生を豊かにするかどうかの判断基準になるのではないかと思っています。

いろんな楽しみかたがあっていい!

俺の主張を押し付ける気はないのですが、俺は「むやみにレトロゲームを集めることはリターンが見合わないことが多い」と思っています。

なので、人には勧められません。俺がレトロゲーム収集を応援しないのも、コンプリートを煽らないのも、「むやみにレトロゲームを集めることは人生を豊かにしないことが多い」と思っているからです。俺はレトロゲームとは一定の距離をおいてほどほどに楽しむのが趣味としてベストな関係だと思っています。

重ねて言いますが、レトロゲームコレクターの方々をディスっているつもりはありません。その生きかたに納得し、やり甲斐と幸福を感じているのなら、それはその人にとっての正解なのでしょう。他人がどうこう言う話ではありません。俺が言いたいのは、「レトロゲーマーだからといって、その在り方はコレクターに追随することだけじゃないと思う」ということです。

もし、今、レトロゲーム収集をしていて、その行為を惰性で続けているようなところがあって、以前感じていたような感動を感じられなくなっている人がいるとしたら。ちょっと立ち止まってみてはいかがでしょうか。

よくよく考えてみると大して欲しくないものを義務感みたいなもので買ったり集めていませんか。目的と手段がいつの間にかすり替わっていませんか。何が自分にとって一番グッとくるのかを心に聞いてみて、あらためてレトロゲームとの向き合い方を考えてみるのもいいかもしれませんよ。

ジョーンズ
ジョーンズ

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